19期目に社名をSALTに変えるということ。

この度、当社は東京で10年、この未知の地だった福岡で9年目を終えて、2021年7月末日に19年目の決算を迎えることができました。
ついにあと1年で20年という節目(人間でいえば成人)を迎えるにあたり、私達の会社名を、現在本拠地にしている、コワーキングスペースSALTと同一にし、株式会社SALTとして仲間たちと新たに歩んでいくことと致しました。この社名変更に至るまでの思いを少しここに書かせていただきたいと思います。

創業期の思い。ピラミッド型の垂直統合の組織ではなく、しなやかなアソシエーション型の組織という構想。

旧社名、株式会社スマートデザインアソシエーションの構想は、私が25年前、大学生3年生の時に初めて購入したデスクトップPCを使って、ようやく世界に張り巡らされ始めたインターネットの空間上に、クリエイターや起業家、アーティストの自宅に訪れてなぜその活動をしているのか?どんな人生を歩んできたのか?などを自ら取材して記事を書き掲載していた「The Planet Plan」というメディアが原型となっています。

就職活動を開始した当初、なぜこのような活動をしていたのか?とよく聞かれます。当時ほとんどの周囲の学生が安定を目指し大企業への就職というものが一つの‘普遍的な就職活動’だったに対して、山一証券が倒産するなど、バブル崩壊とともに、それまでの日本の成長を支えてきた終身雇用制度というものが崩れていくそんな時代の始まりの中で、私の中では、果たしてこの今の日本の働き方に自分が身を投じていってよいのか?という問いが生まれたのでした。会社の売り上げのための歯車になり個を押しつぶして生きるのではなく、もっと、個人の力を活かしあい、はたらくという時間を創造的なものにできないものか?当時はその答えのようなものを探していました。たまたま書店で手にした海外のクリエイティブ動向同行を伝える雑誌で、ロンドンにあったTOMATOというビルで働く、クリエイティブ集団(TOMATO)の存在を知りました。グラフィックデザイナー、音楽家、弁護士、会計士など全くジャンルの違う人たちが、築古のビルを改装し、プロジェクト単位で働いているのだと書いてあったと記憶していて(正確ではないかもしれませんが)、そのことに当時衝撃を受けました。これだと思いました。こういう場所で働きたい、そしていつかこういう場所をつくりたい。そんな思いが強く芽生えたのです。

そして大企業ではなく、同じように個人の個性と力を大切にしていると感じられた、小さなITベンチャー企業(現在の東証一部上場企業株式会社システムインテグレータ)のエンジニアとして働き始め、もう1社クリエイティブ系の企業を経て、2002年10月、26歳の時に独立しこの会社を立ち上げました。
互いの、知とセンスを活かしあい、プロジェクトの価値を最大化するクリエイティブネットワークという構想でこの会社は、大海原に、当時資本金10万円という合資会社の小さな船で漕ぎ出しました。

リーマンショック→東日本大震災を経て。
会社10年目に福岡に移住する決断をしたこと。

創業期の荒波を超えて、IT企業の台頭という時流とともに、当社も8期を超えるころには40名近い社員数となっていきました。東京の様々な大企業のWEBマーケティングやシステム構築を支援する傍ら、現在の事業にもつながるような、地域と農家をつなぐ小さな青空マルシェを定期開催するなど、成長は順調に見えました。しかしながら、リーマンショックに続いて、東日本大震災と、社会・経済変動がより激しさを増す中で、それを乗り切るための私自身、それにスタッフの働き方も、苛烈さを増していきました。

売上や経済規模を最優先としながら、働いていくこの姿は果たして、創業当初に描いた志と、解離していないだろうか。経営者として毎日のように葛藤がありました。ちょうど長男が生まれた時期でもあり、子育てと仕事という両立に悩んだ時期でもあります。
そして、偶然このころ、福岡という地に触れることになります。福岡の人の表情が本当に幸福度が高いという話を何度もしてきましたが次の10年はここでやってみようと決意したのです。もっとしなやかな働き方と、個人の力を引き出す組織という原点に返るべく、当時の社員と何度も話し合いをして、私は福岡に移住することを決め、分散型のリモート型の組織に変更をしたのでした。この10年で、移住や、分散型の働き方は少しずつ増えてはきましたが、10年前の当時この構想はまだまだ早く、常識はずれと言われながらも、福岡への本社移転の着地、リモートツールを導入して、今の働き方を定着をするまでに、約5年近く費やしたと思います。

地方創生の風と、コワーキングスペース台頭の風、2つの風を受けながら。私達は何を感じていたか?

ご存じの通り、その後、私達は、福岡移住計画を立ち上げ、移住者としての実感や失敗体験などを一つのノウハウとしてWEBやイベントを通して発信していくことになります。そして、安倍内閣発足とともに、地方創生という国家プロジェクトが動き出し、私達にとっては、大きな追い風が吹き始めます。また、同時に移住者の仕事場やコミュニティ接続の受け皿として、運営を開始したコワーキングスペース業も徐々に脚光を浴び始めていきます。こうした2つの追い風を受けながら、まったく未知の地、福岡で、仲間となんとか1日1日を超えていくことが出来ました。
しかしながら、追い風を受ける一方、東京や他地域にノウハウを求められてそれを提供するために、各地に毎月のように出張が頻繁にあり、また九州全域を車で何度も往復するような移動をしながら、私達の中には、またしてもこのままでよいのかという問いを抱えながら進んで行くことになります。Aという地点では見えない価値をBという地点から見たときに見えるものつまりヨソモノの視点を失わないようにと考える一方で、それをやっていると、いつまでたってもこの土地の人間になれないということもわかり始めていきました。

大企業を辞めて私達の事業に共感をして、意を決して家族ごと移り住んでくる社員も増えていく中で、各地を往復する日々ではなく、ここにもっと太い根を張り、土を耕して、豊かさを循環していくような在り方の経営ができないものかと、毎月のように全員で対話と合宿を重ねて行きました。終日を費やす毎月の合宿は福岡にきてすでに60回近く開催されてきました。

コワーキング事業の成長に立ちふさがる、再びコロナという最大の難題をどう乗り越えてきたか。

そして、コワーキングスペースという事業の実績が増え、立ち上げや運営のご相談が増えてくる中で、またしてもコロナという壁がたちはだかりました。コロナが蔓延しはじめた2020年3月。実はこの時期に、東京の最大手デベロッパーから東京の拠点の運営をまとめて依頼を受け、開業を間近に控えていたのです。東京から福岡にリスクを冒してまで移住し、IT企業としての私達が不動産活用のまったく右も左もわからないところから、事業としてここまで来たのだという興奮とは裏腹に、人と人の距離を分断し、結果としてリアルなコミュニティを破壊するコロナという最大の難題が私達に与えられます。

このコロナによって、経営的にはコワーキング事業という物自体がすべて駄目になる最悪の可能性もシナリオも持ちながらも、しかし、当社のメンバーは、誰一人として諦めませんでした。リアルで作り上げた会員さんとの絆を、少しでもつなぎとめようと、そして何よりも会員さんに元気を出してもらいたいと、毎日のように、場の雰囲気を伝えるためのオンラインの配信をスタートしたのです。合宿で、毎月のように理念を語り合い、社会の状況の変化を予測しながら進んできたことで、困難を柔軟にとらえて変化する、チームの根っこの力が発揮された瞬間でした。その素早い動きの成果もあり、また私達が選んだ、自然豊かな地域で暮らしていく、はたらいていくSALTという環境の開放性や海の力も働いて、結論としてはそこまで大きなダメージを受けませんでした。また空き家を活用しながら少しずつ展開してきた宿泊事業も、海の前や森の中というロケーションを大切にしてきたことがうまく作用し、それまではインバウンドが8割だった利用客が減っても、逆にコロナで日本人のリモートワークやワーケーションの利用が大きく増えて行くという新たな成果を生み出しながらここまで乗り切ることが出来たのです。

この地の豊かさを、初めて感じる時間。ライフとワークは、切り離せないものに。

そして同時に、それまで各地を移動し続けてきた私自身の働き方やライフスタイルが大きく変わり始めます。移住して初めて、各地の往復の時間が無くなり、会議はすべてオンライン化されて、この福岡市西区をベースに3か月近く「居る」という時間が生まれました。そして、移住して本当にやりたかった暮らし方をするようになりました。自然というものと共存して、働いていくことと自然で過ごすことがより濃密になっていきました。私の発信を見ている人は、釣りばかりしていますねと言われるようになりましたが、そのくらいに、私の中のワークとライフは一体化していきました。釣りや畑、山にいる時間に与えられる余白によって、次のアイデアや行動力を培うことができ、また何よりも良質なエネルギーを得ることができました。

Photo by Kazuaki Koganemaru

この時間の中で、これまでは、ヨソモノの視点で各地を飛び回っている自分には見えなかった、本当の足元にある価値というものに気づくことになるのです。私が住んでいる福岡市西区今宿と九大学研都市は、脊振山系と玄界灘に囲まれ、そしてそこをつなぐ小川が流れ、多くの生き物を育み、そして一次産業を支えています。そこで生まれる豊かな景色は、人々に安らぎを与え、日々の時間を確かに豊かなものにしてくれるのです。当然このような自然条件は、全国どこにでもあるといえばあるのかもしれませんが、そういう比較は関係なしに、この地で暮らす時間を心から大切だと感じるようになりました。

社名変更にかける思いと、これから20年、40期に向けて。

こうして、私達は、より自分たちの暮らしの価値を掘り下げながら、実感することが、結果的にクライアントとなる企業や行政やエリアの豊かさを作ることだということに気づくことができました。そして、20年という節目をあと1年で迎えるこのタイミングで、私達が本拠地として培ってきたこのSALTという場所の名前を、自らの名前として、「ここで生きていく様、はたらいていく様、そのプロセスそのものが私達である」という決意を込めて社名を変更することに致しました。

あたらしい私達が目指すもの。それは、これまでの20年で、経験した常に波がある社会、生き物のように大きく変化する時代を、強く掴み取るのではなく、どちらかというと優しく見守り受け入れる母性の感覚を大事にしながら、時代を探索する企業や人とつながり、育み、そして少しでもそこで暮らす人や、はたらく人々が豊かさを実感できるような場づくりや人づくりを改めてやっていこうと思っています。そのためには、これまで以上により多くのパートナーや、共感いただける企業や行政の皆さんとの連携を図っていき、創業当時に描いた、大きなピラミッドではなく、活かしあうアソシエーション型の組織というものを追求していきたいと思っています。

これからも、どうか変化していく私達に応援をよろしくお願い申し上げます。

株式会社SALT
代表取締役 須賀 大介