内定辞退者からの手紙

この記事はSALTリブランディングのパートナーである、株式会社ファンタジア代表 毛利慶吾さんによる寄稿記事です。
弊社代表須賀との出会いから、移住〜起業に至ったストーリー、そして今回のSALTの新しい船出に立ち会っていただくまでのお話を記していただきました。

この10月、株式会社スマートデザインアソシエーションが、株式会社SALTに社名を変えた。

今から2年以上も前の、2019年9月。代表の須賀さんに「社名を変えるというのはどうですか?」と不躾なことを言ったのは、他ならぬ自分だ。
当時の須賀さんは自分に「ブランドを整えたいのでアドバイスがほしい」と依頼してくれていた。

ブランド整理会議の初回。須賀さん宛ての提案書で、自分はこう質問した。

「スマートなデザイン、アソシエーション。理性的でロジカルな印象を受けます。(中略)いまのSDAにとって、この名は『体を表す』ものでしょうか」

この時は、社名が株式会社SALTになることも、力強い組織改革が行われることも予想していなかった。

先ほどの提案も半ば思いつきで言っただけだった。今は小さな会社を経営する身だが、当時の自分はサラリーマン。社名変更がどれほど重大なのか知らなかった。

けれど違和感だけはあった。同社ほど人間味あふれる会社を、自分は他に知らなかった。その説明のつかない魅力は、一部の人にだけ伝わっていた。そして、本人たちは魅力に気づいてさえいないように見えた。

そこから2年間。須賀さんとその仲間たちはずっとアイデンティティを自問していた。企業の思春期。苦しそうにも見えた。自分も時々会っていろいろと話をさせていただいた。そして、話すだけの自分に、須賀さんはミーティング費用を支払ってくれた。

自分は代表の須賀さんが持つ人間的な魅力に、ずっと惹かれてきた。尊敬しているしある種の憧れもある。その独特な人間味は同社のスタッフにも伝染していて、集団の色になっている。その色気に惹かれて門を叩く人も多い。
「工夫次第で、もっと独自性が強い企業ブランドになるんじゃないかな」
そんなふうに思ったことを言うくらいしか協力できなかった2年間。

ともあれ、SALTは船出したようだ。

このWEBサイトを見た誰もが、何か強烈で個性的なアイデンティティの芽吹きを感じているんじゃないだろうか。須賀さんだけでなく、新生SALTのスタッフ一人ひとりが、いろんな言葉を発している。

「最近、メンバーたちの書く言葉に感動するんですよ」
昨日も須賀さんが喜びのメッセージを送ってきた。照れながらも嬉しそうな、須賀さんのいつもの目が思い浮かぶ。

須賀さんと初めて会った日も、その目の輝きを見た。2008年、出会いは取材だった。

当時、自分はWebデザイナー向けの月刊情報誌で編集者として働いていた。その雑誌には毎号、クリエイティブなWebサイトの制作秘話を載せるコーナーがあった。自分も担当の一人で、とある号でNTTドコモの携帯電話「N705i」のプロモーションサイトを取材した。

amadana、タイクーングラフィックス、テイ・トウワなど、話題のクリエイターが集まって作った話題の携帯電話。このWebサイトをプロデュースしたのが東京・下北沢にあった株式会社スマートデザインアソシエーション。Webプロデューサーを務めたのが代表の須賀さんだった。

このサイト、公開当初からデザイン業界の内外から注目を集めていた。鉛筆で描かれた細密画とグラフィックが、小気味よくぐるぐると動く。肝心の携帯電話が埋もれるほど迫力あるビジュアル、プログラミングで動く緻密なモーション。

このクリエイティブを実現したのは、当時まだ若手だった岡田さんというアーティストだった。取材の場で須賀さんの横に座っていた。岡田さんはアーティストらしく寡黙で、熱気を孕んだ目をしていた。

彼のエネルギーを損なわず案件をプロデュースするのは、きっと大変な仕事だったろう。けれど須賀さんは「岡田さんが素晴らしい仕事をしてくれたので」と照れ臭そうにしていた。自身のことより、岡田さんの仕事が記事になることを喜んでいるように見えた。

事実この仕事は岡田さんの出世作となり、その後の活躍につながる。自分も何度か記事で特集させていただいた記憶がある。

須賀さんが福岡県に引っ越した。それを知って「移住の顛末についてコラムでも書いてくださいな」と依頼したこともあった。2012年のことだ。

メインカット用に送られてきたのは、芥屋海岸で奥様が撮った写真だった。カメラに背を向け、3歳の息子を肩車している。須賀さんらしい照れも感じるいい写真だけど、せっかくの素敵な背中に、がっつりコピーを乗せている。下手くそな編集に、後から見て「しまった」と思った。

「建築家や料理研究家、農家など、職域を超えて共創する仕事で、考え方や視野も広くなった気がします」

その頃の須賀さんは、いつの間にかWeb制作だけでなく地域活性化プロジェクトに取り組みはじめていた。日本中を回ってさまざまな人と交わり、自身の生き方に糧を得ることを楽しんでいるらしい。

翌年、連載の執筆を依頼した。須賀さんがいろんな地方に出向き、地方人の取り組みを紹介する取材コラムだ。取材先のセレクトも、取材自体も須賀さん一人にお任せ。編集担当の自分は原稿を楽しみにするだけだ。

連載タイトルは『ローカルクリエイティブのススメ』、副題は「地域にとらわれない自分の仕事のつくり方」としていた。地域に根差しながら地域にとらわれない。そんな独自の活動をする仕事人。わかるようなわからないような人選テーマで、須賀さんは方々を訪ね歩いた。

毎月、日本のどこかで取材して原稿を書く。そんなハードルールでも、原稿を落とすことは一度もなかった。東京の会社をひとり福岡で経営する当時の須賀さんには大変だったはずだ。

人選は最初のうちこそ雑誌の読者層に配慮していたようだが、次第に奔放になっていった。村づくりしてる人、新しい金融に取り組む人、猟師。実験者みたいな仕事人を取り上げることが多くなった。成功者ばかりでもなかった。

そんな人の内容は、原稿を読んでも理解が難しい。けれど熱気だけは滲んでいた。取材で刺激を受けた須賀さんの「この人を伝えたい」が溢れて、面白い連載になっていった。「地域に根差しながら、地域にとらわれない」の意味が、少しずつわかってきた気がした。

そんな頃、自分も福岡へ転居することになった。東京で夢見た雑誌編集者の道をあきらめて地元に戻る。それは自分にとってかなり重大で、悔しさに、今後の希望も混ざった、複雑な気分だった。

東京を去る2ヶ月ほど前、須賀さんの会社から内定通知をいただいた。

東京での仕事の合間を縫って、福岡の住まい探し。気に入った物件が見つかって、ようやく契約にこぎつけそうな時、「次の仕事が決まってない人には貸せない」と不動産屋から言われた。そりゃそうだと思ったが途方に暮れた。仕事より先に移住を決めてしまった。

「それならうちの内定出しますよ」助け舟を出してくれたのが須賀さんだった。「仕事なかったら本当に来たらどうですか」とも言ってくれた。

他に仕事が決まって、内定は丁重に辞退させていただいた。そのとき契約したマンションに、8年後の今も住んでいる。「もしそのまま入社していたら?」と考えることが時々ある。

引っ込み思案な自分を、須賀さんは食事に誘ってくれる。落ち込んでいると、スナックやカラオケに。こちらの悩みは深く聞かずに「毛利さんなら大丈夫だよ」と言ってくれる。

2年前、心療内科にかかっていたことがある。先生には軽度の鬱だろうと診断された。自分は心が強いと思っていたのでショックだったし混乱していた。2ヶ月ほど仕事を休んでボーっとした。

それを見計らってか、「川に行こう」と誘われた。フライフィッシングに熱を上げてるらしい。須賀さんの車で佐賀県の山奥まで。ヤマメがいそうな渓流を見つけて、3時間ほど釣りをした。

須賀さんは竿を振りながらぐんぐんと川を下っていた。野生児のようだ。
やがて「アタリもないね」と笑いながら帰ってきた。装備だけはとても格好よかったが、まだヤマメを釣ったことすらないとボヤいていた。

「枯れ木を拾って火でも起こしましょう」
焚き火を囲んで、買ってきておいたイカや鮎を焼いて食べた。本当は釣った魚を食べたかったけど、格別に美味しかった。

あたりは夕闇、渓流のせせらぎと焚き火のパチパチという音の中で話をした。
「毛利さんは独立して会社でもやったらどうですか」
「そうですね、でも自信ないな」と言う自分をニコニコと見ながら、須賀さんは炎に枯れ枝をくべていた。過去にも何度か同じことを言われた覚えがあって、そのたびによくも人生のギャンブルを軽く勧めるもんだと感じもしていた。けれど、この時はなぜか「自分の仕事を自分でつくる」というのがナイスアイデアに感じた。

そのあと心身も回復して、半年後に会社をつくった。須賀さんは我がことのように喜んでくれた。

ちょうど、スマートデザインアソシエーションのブランド整理会議も進んでいた。「この会社にとって、どんな顧客が理想的なんだろう?」とディスカッションしていた頃だったと思う。須賀さんが「探索者」というキーワードを出してきた。

探索者。およそWeb制作業やコワーキング事業の顧客像とは思えない言葉だった。

「これからの時代はきっと、荒野に繰り出して自分の道を切り拓く人が重要になってくると思うんです。個人も企業人も経営者も関係なく。そんな孤独で辛い『探索』をする人の横について支えていくのが幸せなんです」

それを聞いて、探索者とは須賀さん自身のことだと思った。いろんな矛盾をバックパックに詰め込んで、旅をするように孤独な道を歩いてきた須賀さんらしい視点だ。

そして同時に、今までを思い出していた。独自の道を歩み出したクリエイター・岡田さんを見ながら、嬉しそうだった取材。日本各地で仕事の実験者を追いかけ、感銘を綴っていた連載。移住早々につまづいた自分に内定をくれたこと。焚き火を囲んで、独立起業を勧められたこと。

正解のない道に踏み出すことを勧めて見守る、厳しい母性。素晴らしい企業ブランドになりそうだと思い「いいですね」と言った。

株式会社SALTがスタートして2ヶ月。
2年前には「ブランドを整えたい」と相談されたのに、逆にブランドは混沌として、生命体のような存在感を発揮しはじめている。これぞ須賀さんの会社だなと思う。

どんな探索も行く末はわからない。だから面白い。
SALTの行く末も、わからなくて面白い。

文:FANTASIA inc.代表 毛利慶吾

毛利慶吾
1979年福岡生まれ。ディレクター、プランナー、編集者。東京大学教育学部を卒業後、学校用図書教材や雑誌『Web Designing』で編集者を務めたのち、2013年に福岡へ移住し、電通九州入社。企業や行政のマーケティング戦略、広告企画を多数手がける。2017年にAPIC-SHA入社、様々な企業のブランド戦略やクリエイティブ、新規事業創出などに関わり、2020年FANTASIA inc.設立。
https://fantasia-inc.jp/
https://www.instagram.com/fantasia_fuk/